つぎに きみ (王《わう》) に なる ものが、 きみたるに ふさはしく ないと いふ ことと、 くにの かたちの ことで ある 王制《わうせい》を やめる こととを むすびつけるのは いかがな ものでせうか。
ほかの くにに ついて いつた ことばは、 すべて わが くにの ことに はねかへつて くると いふのを こころして おかなければ ならないと おもひました。
つぎに きみ (王《わう》) に なる ものが、 きみたるに ふさはしく ないと いふ ことと、 くにの かたちの ことで ある 王制《わうせい》を やめる こととを むすびつけるのは いかがな ものでせうか。
ほかの くにに ついて いつた ことばは、 すべて わが くにの ことに はねかへつて くると いふのを こころして おかなければ ならないと おもひました。
縄文人《じようもんじん》が くらして ゐる ところを 弥生人《やよひじん》が せめうち したがはせた、 だから、 縄文人《じようもんじん》には やさしさが あり、 弥生人《やよひじん》には やさしさが ないと いふ かんがへかたを して ゐる ごとく おもへて しまひます。
この ごとくの わけへだてる みかたは をかしいのでは ないのでせうか。
せめられ したがはさられた ひとびとの なかにも こころの みにくい ものも ゐれば、 せめしたがはせた がはにも こころの やさしい ひとが ゐると いふのは、 あたりまへ すぎて おもしろくないのでせうか。
いや、 ものがたりの おきて、 ひとが それを おもしろく おもへる ための わくぐみに はまつて ゐないので つまらないのでせう。
この たびの ことは、 まづ、 のり (法律《はふりつ》) が ととのへられて ゐなかつた ことに つきるのでは ないでせうか。
たしかに 日銀《にちぎん》の なかの きまりに しめされては ゐるみたいですが、 あまり しつかり して をりません。
くみする がは (与黨《よたう》) には、 日銀《にちぎん》の ひとりだちを たもつ ために 日銀《にちぎん》の なかの きまりに 日銀《にちぎん》 みづから きまりを くはへるべきとの かんがへが あるらしいですが、 その やりかたは いかがな ものでせうか。
この ことは、 きちんと のりで もつて さだめられるべき ことがらでは ないでせうか。
はつきりと あげつらひびと (議員《ぎゐん》) が あげつらひば (議會《ぎくわい》) で あげつらひあつて さだめて いただきたいです。
わが くには、 どうも のりを さだめるのが あとに あとに なつて おくれて ゐて、 のりが まにあつて ゐなくとも、 ひとのみちに はづれてさへ ゐれば、 つみに とへると いふ かんがへが まかりとほつて ゐるみたいに みえ、 あまり よくないと おもひます。
もし、 この さばきで うつたえた がはが かつたと したら、 それ こそが、 政教分離《せいけうぶんり》、 信教《しんけう》の 自由《しいう》を をかす ことだと おもひます。
この たびの さばきで きめられた ことは、 あたりまへの ことが みとめられた ものだと おもひます。
憲法《けんぱふ》は まもられた!
靖國《やすくに》 神社《じんじや》は、 くにの ものとは せず、 たみの もので あるべきです。
まつりごとを とる ひとびとに よつて、 そこに まつられる たましひが かへられたり、 たみを ふるいたたせる ために つかはれるのは、 よく ないと おもひます。
たみの ものだからと いつて、 おほやけの たちばの ひとびとが そこに まうでる ことが できないと いふのも まちがつて をリます。 それを いつたら、 おおやけの ための くるまは、 どこで つくられるの でせうか。
さばきで もつとも おもんじられるべきは、 のり (法律《はふりつ》) に きちんと のつとつて ゐるか、 のりを をかして ゐる ところは ないかと いふ ことです。 まちがつても のりよりも わざはひを かうむつた がはの ひとびとの おもひを おもんじる ことが あつては なりません。
死刑《しけい》は、 おほくの すすんだ くにでは なくなつて ゐるらしいですが、 のこして おくのが よいと おもひます。 とりわけ、 性欲《せいよく》が からんで つみを をかした ものは、 こころが なほる みこみが あまり なささうと おもひますし、 ころして しまふのが、 ひとの よに とつて おもにが へつて よいのでは ないでせうか。 また、 日本《につぽん》では、 むかし、 はらを きつて せめを はたすと いふ ことが おこなはれて ゐた ところから、 せめは いのち (そこまで いかずとも しごとを やめる こと) で はたされるべきとの かんがへが ねづよいと おもはれます。
あまり ないかも しれませんが、 死刑《しけい》を なくす ことで、 わざはひを かうむつた がはの ひとびとが あだを かへす ために、 つみを をかした ものを ころすと いふ ことが ふえる ことは ないのでせうか。
かう いつた おほやけの たちばに ついては、 うちうちの きまりで すますのでは なく、 ひろく おほやけに しめす のり (法律《はふりつ》) に よつて、 なにが つみなのかを あきらかに し、 さばきの にはに かける ことが できる かたちに するべき ではないでせうか。
北朝鮮《きたてうせん》の ミサイルが ひとつ だけ わが くにに あたつたと しても、 すなはち いくさに はひつたと かんがへるのは いささか いそぎすぎに おもはれます (あたりかたにも よりますが)。
ただ、 わが くにと しては、 いつでも むかへうてる かまへを ととのへて おくべきだと おもひます。
この かんがへかたは、 ゆつくり しすぎでせうか。
わるいのは、 わたくしびとだつた あひだに 村上《むらかみ》 さんの ファンドに かねを あづけた ことでは なく、 おほやけびとに なつた ときに あづけた かねを ひきあげなかつた ことらしい ですね。
たしかに おほやけびとの おかねは、 おほやけに されて しかるべきでせう。 おほやけびとの おこなひに ただしくない ことが なかつたか たしかめる ために いる ことです。
しかし、 このたびに ついては、 ひとのみちに もとるからと いつて やめさせれば よいのでせうか。
そもそも、 この たびの ごとき ことを さしとめ、 ふせぐ ための しくみや のりが ととのへられて ゐなかつた ことが とはれて ゐるのでは ないでせうか。
また、 日銀《にちぎん》を 政治的《せいぢてき》に へして、 その ひとりだちを さまたげ、 かへつて あやまらせる ことに ならないでせうか。
ここは、 福井《ふくゐ》 総裁《そうさい》を やめさせるのでは なく、 まうけた おかねを くにに をさめさせる くらゐで よいのでは ないでせうか。 あと、 この たびの ごとき ことを さしとめ、 ふせぐ ための のりや しくみを できるだけ はやく ととのへなければ ならないと いふ ことです。