むかしの 慰安婦《ゐあんふ》の ことで わがくにの 政府《せいふ》は わびろと いふ ことばが アメリカ 議會《ぎくゎい》 下院《かゐん》で きめられましたが、 わがくにの 政府《せいふ》は それに したがっては なりません。
アメリカ 議會《ぎくゎい》は、 アメリカの たみの もので、 わがくにの 政府《せいふ》は わがくにの たみの ものです。
このたびの 參院選《さんゐんせん》では、 わたしは、 すべて 自民黨《じみんたう》に いれました。
くみする がは (與黨《よたう》) が かてば、 民主黨《みんしゅたう》の 小澤《をざは》 代表《だいへう》が やめると いって をられましたので、 小澤《をざは》 さんを やめさせる ためと いふ ことが あります。
小澤《をざは》 さんを やめさせるのが 民主黨《みんしゅたう》の ために なるのでは ないかと かんがへました。
さう なれば、 つぎの 衆院選《しゅうゐんせん》で 民主黨《みんしゅたう》に いれやすく なるのでは ないかと いふ ことです。
參院選《さんゐんせん》で まつりごとを とる ものが かはる ことは ないでせうから、 とりあへず、 さきに 小澤《をざは》 さんを やめさせて、 つぎの 衆院選《しゅうゐんせん》に そなへさせると いふ かんがへです。
また、 このところ、 くみする がはを せめたてる ことばが おほかったと おもはれましたが、 それは、 みな ただ なんとなく ながれに のって ゐるだけで、 まつりごとの へりの あたりばかりで、 まつりごとの まんなかに ついてが あまり かんがへられて ゐないのでは ないかと いささか うたがはしく おもひました。
たしかに 年金《ねんきん》での うけこたへは わるかったですが、 よその くにとの やりとり などでは、 かなり よい ところが あったと おもひます。
憲法《けんぱふ》や 教育《けふいく》を あらためるための のり (法律《はふりつ》) を さだめた ことは それなりに よかったと おもひましたし、 景氣《けいき》は わるくなって ゐる わけでは ありません。
「うつくしい くに」に ついては、 いきすぎが こころがかりでは ありますが、 まづは、 衆院選《しゅうゐんせん》まで みまもる ことに いたしました。
ただ、 ここで くみする がはが かつと、 まだ しばらく、 公明黨《こうめいたう》が くみする がはに をさまり つづけると いふのが わづらはしいです。
さて はて いかに なりましたでせうか。
はなしが かはりますが、 けふ ながされた 「天元《てんげん》 突破《とっぱ》 グレンラガン」の はなしは、 シモンが 安倍《あべ》 總理《そうり》に すこし かさなって みえて、 自民黨《じみんたう》に いれたく なる ものに おもへたのは、 かんがへすぎでせうか。
つぎの かきものの よみかたに ついてです。
「「民間が慰安婦集め」 米軍調査「日本軍は利益得ず」」 『イザ!』 平成《へいせい》 19年《ねん》 5月《ぐゎつ》 12日《にち》
「米軍も日本側の慰安婦は民間調達と認めていた。 」 『ステージ風発』 平成《へいせい》 19年《ねん》 5月《ぐゎつ》 14か
1. 民間人《みんかんじん》が ひとかひ
彼は22人の朝鮮女性に対し個々の性格、外見、年齢による区分で1人あたり300円から1000円の金をまずその家族たちに支払い、取得した。22人の女性は年齢19歳から31歳までで、経営者の占有する資産となった。
この くだりから、 その 民間人《みんかんじん》は、 ひとかひと して をんなの ひとを かって ゐたと いふ ことに なります。
とりわけ、 「~女性は~経営者の占有する資産となった
」の ところが それに あたります。
2. わが軍《ぐん》が てつだった
ソウルの日本軍司令部は同経営者に対し(ビルマまでの)ほかの日本軍各司令部あてに輸送、配給、医療手当などの必要な援助を与えることを認めた書簡を与えた
わが軍《ぐん》が さきの 民間人《みんかんじん》を おほやけに てつだって ゐた ことに なります。
日本軍は(この取得から)利益は得ていない。
わが軍《ぐん》が をんなの ひとや その おやなどとの あひだに たって、 うはまへを はねると いふ ことは して ゐなかったと よみましたが、 つづく くだり (2.の ひとつめに しめした くだり) と あはせて、 そでの したを うけとらずに てだすけ して ゐたとも よめます。
3. わが軍《ぐん》が ひとかひを みとめた
慰安婦採用の過程については日本軍が「許可」あるいは「提案」したとされ
「慰安婦採用の過程
」とは、 1.の すべ、 つまり、 をんなの ひとを うりかひ する ことと よめます。
それから すると、 わが軍《ぐん》が をんなの ひとの うりかひを みとめたか、 すすめたと いふ ことに なります。
4. まとめ
これまでを まとめると、 わが軍《ぐん》が をんなの ひとの うりかひを 民間人《みんかんじん》に みとめたか、 すすめて、 ひとかひの 民間人《みんかんじん》を てつだって ゐたと かいて ある ことに なります。
この 報告書《ほうこくしょ》は、 わがくにの かたきが つくった ものなので、 うたがふべき ものでは ないでせうか。
タグ:
わたしは、 「こすてばは、 こどもの 人生を すくふ」、 「こどもを すてさせるべき」などと かきましたが、 その とき、 障碍兒《しゃうがいじ》に ついては、 かんがへに いれて をりませんでした。
障碍《しゃうがい》の ほどにも よると おもひますが、 障碍兒《しゃうがいじ》を そだてると なると なみの こととは すこし いへないでせう。
おやが すてたく なる わりあひが ふえさうですし、 すてられた 障碍兒《しゃうがいじ》の ために そだての おやを さがす ことは、 さうで ない こどもよりも さらに きはめて むづかしく なりさうです。
さきに あげた わたしの かんがへに ついて、 障碍兒《しゃうがいじ》の ばあひも ふくめて かんがへなほすべきかも しれません。
(それでも、 かんがへは あまり かはらないかも しれません。)
タグ:
韓國《かんこく》は、 おかたい くにで、 はるを うる しごとを みさげる こと はなはだしいと きいた ことが あります。
中國《ちゅうごく》に ついては、 おのれに よい ことで あれば なんでも つかふ ところも ありますが、 そればかりでは なく、 韓國《かんこく》の かんがへかたの 本家《ほんけ》ならば、 韓國《かんこく》と にた ものかも しれません。
アメリカの 福音派《ふくいんは》と いふのは、 かなり かたくなに ひとの みちを まもり、 まもらせようと する ひとびとみたいで、 そこから おしはかるに、 はるを うるなど もっての ほかなのでせう。
つまる ところ、 わがくにが 慰安婦《ゐあんふ》の ことで せめられて ゐる うらがはには、 はるを うる しごとを わけへだてて あしき ものと し、 みくだし、 さげすむ こころねが あると いふ ことでは ないでせうか?
職業《しょくげふ》 差別《さべつ》では ないのでせうか?
まづは、 國民《こくみん》 投票法《とうへうはふ》が なった ことは、 よい ことです。
これに よって、 とりあへず、 たみに よって 憲法《けんぱふ》を かへる ことが できる ありさまに なったのです。
ただ、 もう すこし なかみを たしかめるべきかも しれませんが。
また、 天皇制《てんわうせい》 (皇室《くゎうしつ》 制度《せいど》とも いふらしいですが、 いささか さす ものごとが ちがふのではと おもふので こちらを つかひます) を まもる ためには、 いままでよりも ますます ちからを いれて つとめなければ ならなく なったと いへます。
ところで、 民主黨《みんしゅたう》が なにに ひっかかって ゐたのか よく しらないのですが、 「【参院本会議】前川議員、国民投票法案に反対討論」に よれば、 もっとも ひくい 投票《とうへう》の わりあひで ききめを かぎるべきだと いふ ことが ひとつ あるみたいですね。
それに ついては、 わたしは、 さだめなくても よいと おもひます。
いかなる 投票《とうへう》で あっても、 おほよその ばあひ、 もっとも ひくい 投票《とうへう》の わりあひは、 さだめなくても よいと かんがへます。
民主《みんしゅ》 主義《しゅぎ》は、 たみが みづから すすんで まつりごとに かかはると いふ ことで あって、 かかはりたく ない ひとは、 かかはらなくても かまはないでせう。
投票《とうへう》に いかなかった ために おのれの ものとは ことなる かんがへが とほったと しても、 それは、 ただ、 投票《とうへう》に いかなかった ものが わるかったと いふ だけに すぎません。
ひろく よびかけられて ゐて、 よびかけが たりて ゐたならば、 おほくの ひとびとに とって こころがかりでは ない ことだった ために、 わづかな ひとびとだけの 投票《とうへう》に よって わるい ことに きまって しまったと しても、 つねに まつりごとの いろいろな ことに こころを くばって ゐなかった たみが わるかったと いふだけの ことです。
たみは、 いろいろと いそがしいので、 すべての ことに ついて かんがへる ことは できないでせうから、 どうでも よくて、 ひとまかせに して しまひたいと かんがへた ことは、 ひとまかせに できる かたちに なって ゐるべきだと かんがへます。
ある ことがらに ついて いづれかを えらばうと いふ とき、 その ことに ついて こころに かけて ゐる ひとびとに よってこそ、 より よい ものが えらばれるのでは ないかとも かんがへます。
日本海《にほんかい》を 東海《トンヘ》と かへる ことは、 わがくにには うけいれられません。
なぜなら、 東海《トンヘ》とは ひがしの うみと いふ ことですが、 その うみは わがくにの にしがはに あるからです。
あちらが どうしても なまへを かへたいと いふのなら、 わがくにからは、 竹島海《たけしまかい》と いふ なまへでも あげてみたら いかがでせうかね。
地圖《ちず》を みると、 日本《にっぽん》 列島《れっとう》が つつみこむ かたちに なって ゐて、 それに よって この うみが わけられて ゐるので、 やはり 日本海《にほんかい》の ままか、 かへると するなら 日本《にっぽん》 列島海《れっとうかい》が よささうですが。
(この はなしを きくたびに 「東亞《とうあ》 地中海《ちちゅうかい》」と いふのを おもひ だして しまひます。 あの 小説《せうせつ》が つまらない ことで とぎれて しまって ゐるのは、 くちをしい かぎりです。 繪《ゑ》が かはって しまっても よいので、 つづきを だして いただきたいと おもって をります。)
わがくにの ひとびとは、 のぞみが なくなった ために くらく なって ゐると ききますが、 はたして さうでせうか。
(ただ、 いまは、 すこし あかるくなって きて ゐるかも しれませんが。)
むしろ、 こころの おくで おほきすぎる のぞみを もちつづけて ゐて、 それが うらぎられつづけて ゐると いふ おもひが あり、 そこから のぞんでも しかたないと いふ かんがへに いたって、 それが おもてに でてきて ゐるのでは ないでせうか。
おほきすぎる のぞみと いふのは、 のぞんで ゐる ことが おほきいと いふ ことも ありますが、 それよりも のぞんで ゐる こと そのものは ささやかな ことで あっても、 おのれが のぞんで ゐる ことは、 かならず かなふ、 かなはなければ をかしいと いふ ことが あるのでは ないでせうか。
おのれの ほかは、 みな おろかだと いふ おもひを もつ むきが おほく なって ゐると いふ ことも いはれて をりましたが、 それは、 おのれは、 やれば、 なんでも できるのだと いふ おもひこみから きて ゐて、 それも、 おのれが のぞんで ゐる ことは、 かならず かなふ、 かなはなければ をかしいと いふのと おなじ ことです。
おのれが のぞんで ゐる ことは、 かならず かなふ、 かなはなければ をかしいと いふのは、 よのなかへの あまえです。
よのなかには、 いくら ほねを をっても かなはない ことは いくらでも あります。
ましてや みづから ほねを をらなければ なにも かなはないでせう。
つまり、 いまの よには、 さう した ことが みに ついて ゐない ひとびとが おほく なったと いふ ことに なります。
その わけは、 かなり まへに いはれて ゐた ちちおやが ゐなく なったと いふ ことでせう。
この ちちおやとは、 をとこおやの ことでは なくて、 よのなかの ことわりを おしつけて こどもに みにつけさせる おやと いふ ことです。
それが できれば、 をんなおやでも ちちおやでし、 まとこの おやで なく、 まちの ひとびとでも ちちおやです。
いへからも まちからも ちちおやが いなくなった ことの ひとつには、 さきの いくさに まけて、 こころが をれて しまったからかも しれません。
もともと わがくにの ひとびとの こころには やはらかさが たりなくて、 さらに かたくなに なって ゐた ところで、 さきの いくさで おほまけに まけた ことで ぽっきりと こころが をれて しまった。
その すきに、 かねまうけ 主義《しゅぎ》と、 反戰《はんせん》 平和《へいわ》 ファシズムが はひり こんで しまって、 そこから おのれ かはいさ ゆゑに、 おのれを かへりみずに ただしさを つらぬけなく なって きて、 ちちおやに なれなく なって きたと いふ ところが ありさうです。
かねまうけ 主義《しゅぎ》には ほかの かんがへかたを しなければ なりませんが、 反戰《はんせん》 平和《へいわ》 ファシズムを ぬぐふ ための ひとつの てと しても、 憲法《けんぱふ》の まへがきと 9條《でう》を かへるべきでは ないかと かんがへます。
(ここまで かいて おいて みづから いふのも をかしいですが、 この かきものは、 なにか ふるくさくも おもへますね。 いひふるされた ことばを よせあつめただけみたいですし、 いまの ありさまには すこし あって ゐないとも おもへますが、 いかがでせうか ……。)
こどもを すてる うみの おやより、 こどもに むごい ことを するのに こどもを てばなさない おやのが よほど わるいと かんがへます。
をかしな おやに そだてさせるのは、 その この これからを こはす ことに なります。
ばあひに よるかも しれませんが、 のぞまずに こどもを はらんで しまったと いふ ひとも、 まともな おやには なれさうに ありません。
さう いふ ひとびとには、 すすんで こどもを すてさせるべきです。
こどもは おやの もちものでは ありません。
ただ、 こどもを すてさせるのは、 いりぐちでしか ありません。
すてさせた こどもを いかに まともに そだてるかも しっかり ととのへなければ なりません。
もっとも ちからを いれるべきは、 まともな おやに なれる ひとを ふやす ことかも しれません。
まともな おやと いふのが むづかしいのですが ……。
タグ:
悠仁《ひさひと》 親王《しんわう》 殿下《でんか》の はじめての 節句《せっく》、 おいはひ まうしあげます。


by とつちん
漢字《かんじ》の みだれは …